ボカ・ジュニアーズ ヒストリー

Boca Juniors History

ボカ・ジュニアーズ誕生

1905〜

1905年4月3日、ラ・ボカ地区に住むイタリア・ジェノバ出身移民の5人の若者たちによって、「ボカの若者たち」という意味のボカ・ジュニアーズというフットボール・クラブが誕生した。記念すべき初試合は1905年4月21日に行われ、当時のユニフォームは白と黒の縦縞のユニフォームだった。

1907年当時、青色のシャツと白色のパンツのユニフォームを使用していたが、同じ配色のユニフォームのクラブと、負けた方がその配色のユニフォームを使用できないという条件のもと行われた試合で敗北し、新しくユニフォームのカラーを決めなくてはならなくなった。当時港湾労働者でボカの会長でもあったフアン・ブリチェットが「明日の朝に、港に一番最初にやって来た船のカラーを新ユニフォームの色にする」ことに決め、訪れた船がスウェーデンの船で青色と黄色の国旗をなびかせていたため、ボカ・ジュニアーズの偉大なチームカラー「Azul y amarillo(青と黄)」 が誕生した。これが、チームカラーの由来である。

1912年までは、青色のシャツに黄色のタスキ掛けのデザインであったが、1913年以降青色のシャツに黄色の太い横縞が1本入ったデザインに変更し、現在に至るまで使用されている。

アマからプロへ

1910〜1920年代

1913年からボカ・ジュニアーズは、アルゼンチンサッカーリーグ (1部) に参戦。同年8月24日にCAリーベル・プレートと初対戦(後のスーペル・クラシコ)し、1-2で敗北した。1919年ボカ・ジュニアーズは、一部のクラブが協会の規定に違反したため無効試合が多くなり、わずか7試合が対象となり7勝したボカ・ジュニアーズがリーグ初優勝を遂げた。その後、規定に違反したクラブが別の協会を創設し新リーグが誕生し、当時ビッグ5と呼ばれていたクラブのうち4クラブが新リーグ側に移ったため、強豪クラブがいなくなったボカ・ジュニアーズは翌年1920年も優勝し連覇を達成した。その後も1923、1924年も連覇し、当時59試合無敗という無敗記録も作った。1925年には、全欧州遠征(スペイン、ドイツ、フランス)を実現し、 この遠征での戦績は、19試合で15勝3敗1分。40得点し、失点はわずか16点だった。

1927年からは分裂していたリーグが統合され、アルゼンチン・アマチュア・フットボール協会となった。1930年までは、アルゼンチンサッカーはまだアマチュアリーグであったが、ボカ・ジュニアーズはアマチュア時代に計6回リーグ優勝している。

プロ初タイトル

1930年代

1931年、プロフェッショナルリーグとして開幕。この年ボカは、プロリーグ初のタイトルを手に入れ、中でもFrancisco”Pancho”Varallo(ボカ歴代得点王 181ゴール) とRoberto Cherroは、チームの主力として活躍した。

2度目のタイトルを勝ち取ったのは、1934年、39試合23勝7敗9分、得点101、失点62。パラグアイ人Delfin Benitez Caceresの活躍によりこの年のチームは、1931年優勝時よりも、さらに話題を呼んだ。

また1930年代にボカ・ジュニアーズには専属トレーナーとして日本人の花井貫一がくわっていた。

ボンボネーラ完成

1940〜1950年代

1940年5月25日。現在の Boca Juniors スタジアム Camilo Cihero (通称ボンボネーラ)が完成した。その規模 105×70、観客収容 60,245人。calle Brandsen 805 に位置している。(ボンボネーラは、長い歴史の中で数回にわたり改装されており、 Mauricio Marcri会長により、1953年に、観客席や年間ボックス席等が新装された。)

1940年代に入ると、まずは40年に、史上4度目のタイトルを勝ち取った。チームの主力となったのは Jaime Sarlanga であった。41年、42年はライバルであるリーベル・プレートがLa Maquina(ラ・マキナ)と呼ばれる圧倒的な攻撃陣を擁していたことで苦杯を舐めることになったが、43年は、最終節リーベルの追走を交わし、30試合18勝3敗9分で、 40年代2度目のタイトルを勝ち取った。

当時主力として活躍した顔ぶれには、Natalio Pescia、Mario Boye、Severino varela、そして40年の優勝の主力選手の Salamga などがいた。 そして Boca Juniors が6度目のタイトルを勝ち取るまで時間はかからなかった。1944年、前年とほぼ同じメンバーだった。その後タイトルを勝ち取ったのは10年後の1954 年。この年の戦績は、30試合21勝6敗3分。Natalio Pescia が、44年の優勝に引続き、チームの主力選手として活躍した。1950年代はライバルリーベル・プレートが5度の優勝を果たして黄金時代を作り、ボカは圧倒された。

タイトルラッシュ

1960年代

1960年代は4度優勝を果たした。まずは1962年で、28試合18勝3敗7分。得点45、失点はわずか18点。主力 選手となったのは Antonio Roma、Silvio Marzolini、Antonio Ration、Paulo Valantin、Ernesto Grillo 。

63年にはコパ・リベルタドーレスで決勝まで進んだが、ペレを擁するサントスFCに敗北した。

そして1964年、60年代2度目のタイトルを勝ち取る。30試合、17勝3敗10分。35得点、15失点。主力メンバーは、62年とほぼ同じ。続く 65年も Boca Juniors はタイトルを勝ち取る。34試合19勝12分。敗戦はまずか3戦のみ。65年、66年は2年続けてコパ・リベルタドーレスでは準決勝で敗退した。

68年6月23日、リーベルとのスーペル・クラシコの試合終了後に将棋倒しが起きてボカのサポーター71人が死亡するという大惨事が起きた。(12番ゲートの悲劇)

そして69年、60年代最後のタイトルを勝ち取る。ボカはこの年リーベルの元名選手Alfred Di Stefonoが監督に就任し、コパ・アルヘンティーナで優勝、チーム総合力は向かうところ敵なしであった。さらにリーグ戦では最終節までもつれ、最終節のスーペル・クラシコではMadurga の2得点により引分けたことでライバルの本拠地で優勝を決めるというボカにとって歴史に残る一戦となった。戦績は17試合、13勝3分、敗戦は1敗のみ。主力となったのは、Rojas、Madurga、 Roma、Sune、Marzolini、Melendez など、錚々たる豪華メンバーがチームに貢献した。

国際タイトル獲得

1970年代

1970年代は、77年、続く78年に、リベルタドーレス杯優勝、インターコンチネンタル(現クラブワールドカップ)優勝と、国際大会で3つのタイトルを勝ち取った。

リーグでは、1970年に70年代最初の優勝を果たした。22試合15勝4敗3分、40得点、21失点。主力選手は、 Roma、Rojas、Marzolini、Mouzo、Sune、Madurg らが活躍した。その後1976年、 Nacional と metropolitano で優勝を成し遂げる。
metropolitan リーグは11試合8勝3分18得点8失点。決勝でリーベルに chapa Sune がゴールを決め、1-0で勝利。同リーグとも、ほぼ同メンバーで参戦した。しかしリーグの優勝は、 Mario Zanabria の活躍がなければ有り得なかったであろう。

そして1977年9月14日、ボカ・ジュニアーズ史上初、リベルタドーレス杯を勝ち取った。決勝の相手はクルゼイロで、第一戦1-0でボカが勝利、第二戦は敵地ブラジルで1-0と敗戦、第三戦の会場となったのはウルグアイの Centenario de Montevideo 。試合は引分けのままPK戦の末、5-4でボカ・ジュニアーズが、この大会初優勝を成し遂げる。

続く78年のリベルタドーレス杯。相手は Deportivo Cali (コロンビア) 。第一戦は不利な敵地で0-0で引分け。そしてホームに迎えた第二戦、ボンボネーラで4-0でボカ・ジュニアーズが快勝。この大会、二連覇の快挙を達成する。
同年、インターコンチネンタル(現クラブワールドカップ)決勝では、ボンボネーラでボルシアミュンヘングラートバッハに3-0で勝利を収め、インターコンチネンタル初優勝を成し遂げた。

マラドーナ入団

1980年代

1980年代は優勝とはほとんど縁のない年代となる。しかしクラブ史上、忘れることのできない偉大なプレーヤーである、 “スーパースター” ディエゴ・マラドーナの時代であった。 青と黄のユニフォームを身にまとう彼のプレーに、観客は魅了されたのだ。しかし、翌年マラドーナはFCバルセロナに当時フットボール史上最高額の移籍金で移籍したため1シーズンでボカを去った。

リーグ優勝は81年のメトロポリターノのみであり、その年の戦績は、34試合20勝4敗10分、60得点、27失点。勝点50は、 2位の Ferro と、その差はわずか1点であった。主力選手は、 Maradona、Brindisi、Ruggerl、Gatti、Mouzo 。

その後優勝から遠ざかるが、1989年のスーペル・コパ・スダメリカーナ決勝、対インデペンディエンテ戦第二戦、0-0の引分けのまま PK戦へもつれ込んだ末、インデペンディエンテを下し、ボカ・ジュニアーズ史上、国際大会4度目のタイトルを手に入れた。この大会の主力選手には Navarro Montoya、Claudio Marangoni、latorre などがいた。

マラドーナの復帰、ビアンチ時代の到来

1990年代

1990年代は、90年、コパ・スダメリカーナで優勝し、同年ガブリエル・バティストゥータが入団した。90/91シーズン後期は圧倒的な攻撃力を擁し、全19試合無敗を記録して1位になったが、プレイオフで敗れリーグ優勝は逃した。なおプレイオフには欧州移籍が決定したバティストゥータは出場していない。

92年にリーグ優勝を成し遂げた。最終戦、対 San Martin de Tucuman 戦に、 benetti の同点ゴールで 1-1の引分けに持ち込み、優勝した。タイトル獲得の主力選手は、Simon、Navarro Montoya、Cabanas、Tapia Marcio、 Martinez、Giunta らがいた。

95/96シーズン前期にマラドーナがボカに14年振りに復帰し、カニーヒア、キリ・ゴンザレス、ディエゴ・カーニャ等名選手も入団したが、4位でシーズンを終えた。後期にはフアン・セバスティアン・ベロンが入団も結局5位でシーズンを終える。

96年にはリケルメがプロ・デビュー、97年には後にクラブ史上最多得点記録を樹立するパレルモ、バロスケロット、ソラーノ等が入団した。また1997年10月25日のリーグ戦第10節、アウェイのリーベル戦 に先発したマラドーナは前半終了をした時点で交代を申し出てリケルメと交代、その後、試合はボカが2-1で逆転勝利した。そして、この試合を最後にマラドーナはボカの試合に出場することは無く、このスーペル・クラシコが天才ディエゴ・マラドーナの公式戦引退試合となった。

98/99シーズン前期にカルロス・ビアンチを監督に迎え、前期後期ともに優勝し連覇を達成した。

世界王者

2000年代

2000年代は名将ビアンチの指揮の下、数々の国内外のタイトルを獲得し、ボカは世界的に知名度のあるビッククラブとして成長する。

2000年、22年振り3回目のコパ・リベルタドーレス杯で優勝し。東京で欧州王者レアル・マドリードを世界一の座を懸けてインターコンチネンタルカップを戦い、レアル・マドリード有利の前評判を覆し見事22年振りの世界王者に輝いた。また帰国後00/01シーズン前期にも優勝し2000年は、3冠を達成した。

01年もコパ・リベルタドーレス杯を制し見事2連覇を達成し、再び東京で世界一をかけてバイエルンミュンヘンと対戦するがこの年は敗北する。同年カルロス・テベスもプロ・デビューを果たす。

02/03シーズン後期から一度クラブを去ったビアンチ(01/02シーズン前期終了後退任)が復帰し、この03年コパ・リベルタドーレス杯で優勝し、5度目の南米王者に輝いた。その勢いのまま横浜で行われたインターコンチネンタルカップでもACミランを下し3度目の世界一の称号を手に入れた。またこの年帰国後、リーグ戦でも優勝し再び3冠を達成した。

04、05年はコパ・スダメリカーナ、05、06、08年はレコパ・スダメリカーナ、05/06シーズン前期、後期、08/09シーズン前期で優勝を達成し、2000年代、10個の国際タイトル、4度の南米王者、2度の世界王者に輝いた。